コラム,Gregor Maehleのコラム 2019.03.02
What is Yoga Asana? ヨガアサナとは?|GregorMaehleのポーズ探求コラム
現代の多くのヨガプラクティショナーが、ヨガとはポーズ(アサナ)であるという狭い視点を持っている中で、ヨガの経典(ヨガスートラ)、パタンジャリが第三章で語ったことをおさらいしていきます。
これは、経典第2章46節に示されている、パタンジャリ(Patanjali)の定義の最初の部分です。
II.46 Posture must have the two qualities of firmness and ease. 第2章46節 アーサナは安定していて、なおかつゆったりとしたものでなければならない。
ヤマ(yamas)と二ヤマ(niyamas)の実践の効果を説明することで、パタンジャリは最初の2支則についての説明を締めくくります。
この2支則については短い説明をするだけにとどめています。
最初の5支則についての彼の説明は非常に簡潔であるため、ヨガスートラがプラクティスがある程度確立された生徒対して記述されているという事実を暗示しています。
そして彼はたった3節で8支則3番目、アサナついて説明します。
だからといって、ポーズが重要ではないという意味ではありません。
もしそうであれば、パタンジャリはアサナをヨガの8つの主要な側面の1つとして表記していなかったでしょう。
そして彼はわずか5節でプラナヤマ(Pranayama)を説明し、2節でプラティヤハラ、制感(pratyahara)を説明しています。
ほとんどのヨガスートラはサマディ(Samadhi)とその効果について説明しています。
この部分がパタンジャリが最大に関心を持っている事です。スヴァトマラマ(Svatmarama)やゲーランダ(Gheranda)などのヨガ教師は、最初の4〜5支則にほとんどフォーカスしていました。
しかし、だからといって彼らがサマディ(Samadhi)を不必要な練習としていたわけではありません。
パタンジャリは、力強さと柔らかさという、正反対の2つの性質を使いポーズについて説明しています。
ポーズに力強さが必要であるならば、努力が必要とされるでしょう -筋肉を収縮させ、体がグラグラしないよう支える努力です。
一方、柔らかさは、リラックスしている状態、優しさ、そして努力をしていない状態を意味します。
パタンジャリは、私たちがこれらの反対の方向働きを同時に働かせない限り、ポーズを達成できないことをすでにここに示しているのです。
内なる強さから来る力強さ、リラックスをもたらす柔らかさについての説明ということです。
ヴィヤサ(Vyasa)の解説の中にはポーズのリストが記載されており、そのポーズとはヨガのシャスートラ(Shastra 聖典)に従ったヨガのポーズ(ヨガアサナ、yogasana)を意味しており、ただ背中、首、頭を一列に並べることではないことを示しています。
彼はまた、ポーズが快適に保持されたときにのみ、そのポーズがヨガのアーサナになると言っています。 そのような状態を保てるまでは、全てのポーズはヨガのアーサナへの挑戦をしている行為と見なされます。
シャンカラ(Shankara)は、ヨガのアサナをとっているときは、心身が力強く安定し、痛みは経験しないと、詳しく説明しています。
アサナが完成した後、プラナヤマや集中するプロセスに進むため、気を散らすことを防ぐためにその力強さが必要なのです。
ここで、痛みがないということに触れているのは興味深いことです。知覚の分野が痛みで満たされている場合、気が散ってしまい、マインドが落ち着きません。
パタンジャリが謳うヨガポーズの柔らかさ、心地よさを達成することで自動的にポーズをとっている時に痛みの原因となるものを排除されるのです。
もしあなたがポーズをとっているときに痛みを感じているならば、心地よくポーズがとれないでしょう。
現代のヨガでは、身体にフォーカスされすぎているため、体を傷つけるようなポーズをとるトレンドが広がっています。これは定義を考えてもわかる通りヨガのアサナとはいえません。
ヨガの聖典には、アサナをとっているときは、ヨギーの集中を妨げないように、手足を快適で安定した位置に置く必要があると記載されています。
その後、自分の内側の呼吸(プラナ)がしっかりとコントロールされ、意識が真ん中のチャンネル(スシュムナ Sushumna)に移動します。
そしてスシュムナSushumnaが時間を征服し、心の動き(ヴィリッティ vrtti)は制御されます。それからブラフマン(Brahman) の瞑想が起こるのです。
アサナはサマディ(Samadhi)のための準備です。それに対して、痛みをもたらす練習は知覚的な自己(ジバ jiva)と身体との間の結びつきを強めます。
これらの練習は新体操のようなものであり、もしかしたら健康的なものでもあるかもしれませんが、ヨガとは言えず、観るもの(drashtar)と観られるもの(drshyam)の偽の結合(サムヨガ samyoga)を認識しているものと言えるでしょう。[1]
[1] ヨガスートラ第2章17節
これは、Patanjaliの経典とその関連コメント、解説に対する私の2006年の解説の抜粋であり、このブログ記事は、2006年の書籍Ashtanga Yoga Practice and Philosophyに含まれています。
日本語訳 Rolf Marika
原文リンク:https://chintamaniyoga.com/yoga-philosophy/what-is-yoga-asana/