ブログ,Gregor Maehleのコラム 2019.04.25
努力なしにポーズをとることができた時のみ、そのポーズは高度なヨガの支えとなります
2018年3月2日 グレゴール・メール
「今時のヨガは体操のような動きに瞑想のようなアレンジが加えられたものだ」と信じている人たちが本当のヨガの練習を積み重ねていないという証拠がここにあります。
この一節では、パタンジャリ(Patanjali)は姿勢と後半の8支則の関係について定義しています。他の聖典や出典からの引用も含まれています。
II.47 Posture is then when effort ceases and meditation on infinity occurs. 第2章47節
努力なしに自然な状態で姿勢をとれるようになり、無限の瞑想をすることで、アーサナに熟達することができる。
このスートラはシャンカラチャリヤ(Shankaracharya)の アパロシャヌブティ(Aparokshanubhuti)の114節に似ています:”真のポーズは、ブラフマンの瞑想を自然にそして絶え間なくもたらすものであり、苦しみをもたらすものではありません”[1]
ここでもまた、私たちがポーズを保つため努力している限り、それは真のヨガポーズではないということが暗示されています。
努力と不快感が意味するのは、練習しているポーズが準備段階であるということです。
固有受容意識のトレーニングを通して、自分の四肢が正しい位置に持っていくことで、突然努力の必要がなくなるのです。
努力が要らなくなくことについてはヨガスートラの第2章27節にも記載されています。
何かをしなければいけないという事からの解放は、ヨガを深める前提条件として記載されているのです。
第1章16節のスートラで説明されているように、完全なる離欲(paravairagya)を実践することで努力と意図は、完全に自分から切り離され手放すことができるのです。
それからプラナは静かに流れ、心の邪魔な動きは止まります。
それから無限の瞑想が起こり、その状態は身体と心が空の経験となるのです。シャンカラ(Shankara)が言うように、この瞑想はさらに意図的な努力なしに自然に起こります。
これは、いったん身体と心が空の状態が知覚されると、無限の瞑想(アナンタ)(ananta)に対する障害が取り除かれるからです。
それでは、どのようにしてこの「空」の練習をしたらよいのでしょうか?
パタンジャリは、価値のない瞑想の対象となるような、空間の無限性については話をしません。
空間の無限性は精神的に自分と向き合うことを通して理解することができ、瞑想は必要ないからです。
パタンジャリは、ここで意識の無限性について瞑想すること提案します。
タイッティリーヤウパニシャッド(Taittirya Upanishad)は、「satyam jnanam anantam brahma」(ブラフマン(Brahman)は現実、知識そして無限です。)と述べています[2] 。
無限性は、ここでブラフマン(Brahman)の属性として挙げられているのです。
そしてパタンジャリはブラフマン(Brahman)という用語を使用していません。
なぜなら、別に存在するプルシャ(purusha)とプラクリティ(prakrti)は1つなのだということを意味したいからです。
しかし、彼はアナンタ(Ananta)という言葉を使って意識の無限性を参照し、それに対して空間の無限性は微々たるものだと説明しているのです。 第4章31節のスートラでそれがはっきりと説明されています。
しかし、パタンジャリが無限性を表すために、シャンカラ(Shankara)が言及したブラフマン(Brahman)という言葉の代わりにアナンタ(Ananta)という言葉を使ったことは重要に受け止めるべきです。
アナンタ(Ananta)は、「ヴァンデグルナム」(Vande gurunam)のチャンティングにも含まれる、蛇の神アディシェシャ(Adishesha)の別名です。
アナンタの任務の1つに、ヴィシュヌ神が眠るためのベッドを提供することがありました。
主は時に重く厳粛な外見でした。 彼が悪魔王バリ(Bali)を打ち負かせたとき、その風貌は巨大化し、3歩で3つの世界をまたぐこともできたのです(トリヴィクラマ)(trivikrama)。
3歩目では彼と一緒にバリ(Bali)を冥界へと押し戻しました。
バガバッドギータ(Bhagavad Gita)[3] では、ビシュヌ(Vishvarupa)の普遍的な姿の啓示は、このような形で説明されています
: ‘そして、パンドゥ(アルジュナ)(Pandu [Arjuna])の息子は、神々の神の姿を通して多数に別れていた世界が一つになった、宇宙全体を見た。’[4] その3節後にアルジュナはこう叫ぶのです、「あなたが持つたくさんの目、手、腹、口を見ています。 どこから見ても無限の姿です。あぁ宇宙の主よ、普遍的な姿のあなたよ、私にはあなたの姿の終わりも、真ん中も、始まりも見ることができません。」[5]
ヴィシュヌ(Vishnu)は無限と広大の神と言われています。私達がみてきたように、ヴィシュヌが眠るためのソファを提供する時、アナンタ、ペルソナ化された無限性が呼ばれるのです。
そのソファには二つの相反する質が存在しなければなりませんでした
; ヴィシュヌ神の広大さを支えるために無限に硬く、 一方、主に最高のベッドを提供するために無限に柔らかくなければならなかったのです。このため、アナンタは硬さ(スティラ)(Sthira)と柔らかさ(スッカ)(Sukham) の相反する資質を結びつけ、それが彼のすべての動きであり、真のポーズとしたため、彼は理想的なヨギと見なされたのです。
これは8支則の中の第3支則のみに対するものであると考えるかもしれませんが、(ヴィヤサ)Vyasaは「心が無限のサマディ(samadhi) にあるとき、その時ポーズは完成する」と断言します。
ヨガヴァシスタ(Yoga Vashishta)が述べているように、私達はまたヴィシュヌ神が誰でもなく私達自身、自己であることを理解する必要があります。
ということは、無限性のペルソナであるヘビ神が、私たちの最も内側の自己を表す神のために最高のベッドを提供するということになりますが、もし私たちの体が完全な姿勢、つまり力強さと柔らかさのバランスが取れた状態に保たれれば、努力をすることなく自発的に私たちの内なる自己を見ることができるのです。
アサナ(Asana)は学者たちによって熟考されていますが、このような高い視点から実践されたならば、アサナはいわば神の表現です。
もしそうでなければればただの運動にすぎないということになります。
パタンジャリがアサナについて説明している見解は、完全なる離欲(パラヴァイラーギャ)(paravairagya)と目的のないサマディ(アサムプラジュニャータサマディ)(asamprajnata samadhi)の2つで、ヨギにとっては一番高いレベルのプラクティスをしている状態、ベースとなるものです。
アサナはこれらの練習を積むための枠組みを作り出すものであり、私たちがこれらの状態を持続できたときにのみアサナの目的は達成されます。
一方、離欲とサマディ(Samadhi)はアサナの中で起こります。私たちの練習が進むにつれ、はじめの8支則を放棄することはありませんが、後半の8支則の基礎を提供するために、自然と、そして同時に起こるようになるのです。
[1] スリサンカラチャリヤのアパロシャヌブティ(Aparokshanubhuti of Sri Sankaracharya)訳:Vimuktananda, Advaita Ashrama, Kolkata, 1938年
[2] ヨガスートラ第2章1節1
[3] ヨガスートラ第4章13節
[4] シュリーマッドバガヴァッドギータ(Srimad Bhagavad Gita)訳:Sw. Vireswarananda, Sri Ramakrishna Math, Madras 226ページ
[5] シュリーマッドバガヴァッドギータ(Srimad Bhagavad Gita)訳:Sw. Vireswarananda, Sri Ramakrishna Math, Madras 228ページ
このブログ記事は、2006年のテキストAshtanga Yoga Practice and Philosophyに含まれています。
日本語訳 :Rolf Marika
原文リンク:https://www.chintamaniyoga.com/yoga-philosophy/posture-becomes-effortless-can-support-higher-yoga/