Gregor Maehleのコラム 2019.05.05
アサナで相反する力を結合させる
ヨガのポーズは何のために設計されているのかをもっと話していきましょう。
私はパタンジャリ(Patanjali)のヨガスートラ第2章46節と47節について、自分なりの解説をブログに書き、現代のヨガがどれだけ元々の概念からどれほど遠く離れてしまっているかを問い示したことがあります。
ここで第2章48節について話していくにあたり、私の問いはさらに深まります:
II.48 In asana there is no assault from the pairs of opposites.
第2章48節アーサナに熟達した者は、二元性(相反するものの対)によって思考を妨げられることがなくなる。
この節は、本当の意味でのアサナが達成された状態であることについての説明であり、努力と不快感が存在する、アサナの準備段階ではありません。
私たちが、まず初めに学んだ相反するコンセプトは力強さと柔らかさでした。
両極端の相反する力を同時に統合することによって、私たちは自分のコアの中で自由になり努力をせず休息をすることができるのです。
それからブラフマンの瞑想をすることができるようになるのです。
そしてここでパタンジャリ(Patanjali)は、本当のアサナは、私達が相反する力から解放され、休息できている状態だと定義します。
相反するものはマインドが執着したがるものの極値だとも言えます。
例えば、私が瞑想する前に、何百もの異なるヨガのポーズを習得する必要があります。
これは極端な話で、マインドはヨガを理解するためにそうしろと言い張りますが、本当は定義から考えてもマインドがヨガを理解するということはできないのです。
この反対の考え方は、瞑想には何の準備も必要ないという姿勢です。ここでマインドは、私たちにポーズやある程度ヨガの練習の熟練性が瞑想のために必要ではないと信じるようにします。
これらの両極端な考えの間には純粋な状態があり、そこには自分がマインドのおしゃべりの影響を受けずにただ存在しているだけです。
マインドは常にまわりで何が起こっているのかを解明しようとします。
そして現実のモデルを作り出し、そしてそれを自分の指示系統、つまりエゴ、知性、意識に伝えていくのです。
私たちが自分から、両極端または相反するものたちと呼ばれるようなモデルのいずれかで自分自身を識別してしまったら、結果的には条件付きの存在に戻り、厳密に言えばヨガをしようとしているだけです。
私たちがヨガを実践しているのを見ると、マインドはヨガが何であるかを理解することに興味を持ちます。
マインドはアシュタンガが正しい方法だと言い、他のスタイルのヨガは間違っていると言うかもしれません。
あるいは、マイソールスタイルのクラスが正しく、トークスルー(ポーズに入る方法の説明つきの)クラスが間違っていると言うかもしれません。
そしてヒンズー教徒は良い人で、キリスト教徒とイスラム教徒は悪い人だ、あるいはその逆のような考えを思いつくのも好きです。
この原則は、ポーズそのもので一番詳しく探られています。私たちがハンドスタンドをしているとき、
マインドはハンドスタンドという姿勢は自分の体を床から遠ざけることを意味すると言うかもしれません。
相反する力の片方のみに固執してしまうと、もう一方の側にある力をコントロールすることができません。
ハンドスタンドで言うと、床の方に体と胸部を近づける力です。相反する力の存在を無視したため、私たちにそのつけがまわってきたというわけです。
言い変えれば、片側の力の方向だけに集中してしまったために重心を失ってしまったということです。
例として後屈をみてみましょう:後屈とは、体の後ろ側を収縮させることを意味します。
しかし、私たちがマインドを無視して、極端な考えに邪魔されないままでいるならば、実は体の背面を長くしなければならないことに気がつくはずです。
どうしてかというと収縮された背面はアーチを作るようにして動かせないからです。
私たちがパスチモッターナアサナ(Pashimottanasana)をとっている時、マインドは最初にこの姿勢を「頭を膝に突き刺すような姿勢」と捉えるかもしれません。
1年後、マインドはこのポーズを「胸部を足の方に引っ張る」という説明に修正したかもしれません – はじめに比べ、それははるかに良いですがまだ極端な考えです。
それからやがて私達はマインドに耳を傾けるのを止めて本当のポーズをとることができます。
そこでは体のあらゆる細胞が目覚め、ポーズに参加しているのです。
もしこれから、「パスチモッターナアサナ(Pashimottanasana)はどんなポーズですか?」と聞かれた場合、それ以上何もいうことはできないでしょう。
どんな新しい概念でも、それを説明してしまったら反対と極端の一対に過ぎません。自分から概念や極端なものと一体になろうとするのではなく、私たちはコアにとどまり、自然に存在するだけでよいのです。
パタンジャリの解釈者の中には、パタンジャリがここでは一種の麻酔について話していると誤って主張する人もいます。
ヨガポーズの痛みに充分耐えた場合に生じる、しびれからくる、感覚が麻痺した状態です。このしびれて無感覚になる状態はしびれを促進させる練習をするならばきっと達成できるもので、そして実際に多くのヨギ達がその道を進んでしまいました。
しかし、ヨガはしびれよりも感度を高める純粋な存在への道です。
ヨガスートラ第2章15節に関する解説の中で、ヴィヤーサ(Vyasa)は、目の肥えたヴィヴェーキナハ(vivekinah)は、クモの巣に触れることにさえ敏感な眼球のようであるが、普通の人は体の他の部分のようにクモの巣に触れても何も感じないぐらい無感覚であると説明しています。
したがって、ヴィヴェーキナハ(vivekinah)は痛みに対してより敏感であり、無感覚ということではありません。
彼は彼自身が苦痛と同じものではないことを知っているので、自由のままでいることができるのです:証人として苦痛を目撃しているだけなのです。
しびれて無感覚になっている状態を通してヨガを識別することは悲しい発展です。
それは私達が日の出を見たり、太陽光が葉の上の朝露を通して輝いているというような自然のままの瞬間を奪うだけでなく、初めて私達が瞑想を通して、外から何も言われずにピュアな本当の自分を観察できるような瞬間も奪うことになるからです。
私達は、知識の太陽が自分の内側に上がることを知っています – どんなに沢山の麻酔薬を使っても、その感覚を引き起こすことはできません。
このブログ記事は、2006年発刊の書籍「アシュタンガヨーガ実践と探求Ashtanga Yoga Practice and Philosophy」に含まれています。
日本語訳 :Rolf Marika
原文リンク:https://www.chintamaniyoga.com/yoga-philosophy/posture-becomes-effortless-can-support-higher-yoga/